こんばんわ!管理人の緑茶です。
今回は少しチャレンジして、趣の違う記事を掲載してみようと思います。
本日のレビュー記事は多くの人が知っている名作,夏目漱石の「我輩は猫である」です。
ただ、名作ですので多くの人が様々な切り口で、分析・感想を書かれています。なので
文学的な分野というかマジメな話はそちらにお任せして、この記事では緑茶が感じる
「我輩は猫である」をライトに掲載しようと思います。
でわ・・・
「我輩は猫である。名前はまだない。」
この書き出しは有名で、皆様もご存知だと思います。とても語呂が良く、頭に入りやすいので
この部分だけ知っている方もいるのではないでしょうか。
また、アレンジしても使いやすいフレーズで「○○は○である。○○はまだない」とすれば
この語呂のよさの恩恵を受けることが出来ます。
たとえば、「我輩は緑茶である。仕事はまだない。」こんな具合です。
しかし、この作品は1905年の作品で、100年以上前の古い小説です。度々教科書に登場する
作品ですので、それで冒頭は知っている人も多いと思いますが、全体像をご存知でしょうか。
実は文学的な表現力や、当時の背景などを全部取っ払って超ライトに説明すると
「吾輩は猫であるは、猫視点の日常系小説です。」
日常系。つまりこれは、中学校の先生が飼っていた猫の日常を「猫が人間を観察する視点」で
淡々と描いたものです。過度な冒険やロマンスはありません。
イメージとしては、サザエさんの「タマ」を主人公にしたタマ視点の物語です。
唯一、サザエさんと違うのは「止まった時の中」ではなく、少しずつ回りも変化していく
「動いている時の中」の作品というところでしょうか。
また、本作は「一本の長編小説」として書かれたのではなく、雑誌への連作作品です。なので
我輩は猫であるという作品は、何本ものミニエピソードの集合体です。
その為、いざ全体像を思い出そうとすると、ハッキリと「こういうお話です!」と思い出し
にくいのだと思います。
まぁ、今風で言うのならば、コチ亀の全体像を説明しろといわれているようなモノです(笑)
そんな「我輩は猫である」は、ゆるーく淡々と連載されていくわけですが、最終回は衝撃的です。
ココだけ知っておけば、ちょっとしたマメ知識として使えます。
最終回。猫はいつもどおり、のんびりと暮らしています。そこに人間達が飲み残したビールを
見つけます。猫は人間達が旨そうに飲んでいるのを思い出して、自分も飲んでみようと思い立ち
結構ガッツリ飲んでしまいます。
すっかり酔っ払った猫は、気分が良くなって散歩に出かけます。
そこで、うっかり足を滑らせて甕(かめ:水をためておく大きな壷のようなもの)に落ちて
しまいます。
かめには水が入っていて、猫は水死。死ぬまぎわに「南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」
と言って突然の死亡終了となるのです。本当にコレで終わります。
水死している猫を飼い主が見つけて、悲しむとかそういう後日談もありません。
まさかの日常系からの突然の死亡エンドという急展開です。
現代の作家が書けば、いままでゆーるく日常を過していた猫の物語ですから、きっと「ゆるーく」
終わるんだと思います。
しかし、日常系というジャンルが存在しない時代だったからこそ、このようなエッジの効いた
終わらせ方が出来たのではないでしょうか。
どうでしょう。100年前の日常系ノベルに少しでも興味が沸いて頂ければ嬉しいです。
文学として読もうとすると、それは難しいですから軽い気持ちで読んで見ては如何でしょうか!
猫視点の日常なので人間の不思議な行動がよく観察されていて、とても面白いですよー!
AMAZONなどで、新書体版の単行本も購入可能です。それでも敷居が高いと思う方は
漫画版もあります。
是非!!
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