2016年3月15日火曜日

我輩は猫である =単発記事=

 こんばんわ!管理人の緑茶です。

 今回は少しチャレンジして、趣の違う記事を掲載してみようと思います。
 
 
 本日のレビュー記事は多くの人が知っている名作,夏目漱石の「我輩は猫である」です。
  
 ただ、名作ですので多くの人が様々な切り口で、分析・感想を書かれています。なので
 文学的な分野というかマジメな話はそちらにお任せして、この記事では緑茶が感じる
 「我輩は猫である」をライトに掲載しようと思います。
 
 でわ・・・

 「我輩は猫である。名前はまだない。」

 この書き出しは有名で、皆様もご存知だと思います。とても語呂が良く、頭に入りやすいので
 この部分だけ知っている方もいるのではないでしょうか。
 
 また、アレンジしても使いやすいフレーズで「○○は○である。○○はまだない」とすれば
 この語呂のよさの恩恵を受けることが出来ます。
 
 たとえば、「我輩は緑茶である。仕事はまだない。」こんな具合です。
 
 
 しかし、この作品は1905年の作品で、100年以上前の古い小説です。度々教科書に登場する
 作品ですので、それで冒頭は知っている人も多いと思いますが、全体像をご存知でしょうか。
 
 実は文学的な表現力や、当時の背景などを全部取っ払って超ライトに説明すると
 
 「吾輩は猫であるは、猫視点の日常系小説です。」
 
 
 日常系。つまりこれは、中学校の先生が飼っていた猫の日常を「猫が人間を観察する視点」で
 淡々と描いたものです。過度な冒険やロマンスはありません。
 
 イメージとしては、サザエさんの「タマ」を主人公にしたタマ視点の物語です。
 
 唯一、サザエさんと違うのは「止まった時の中」ではなく、少しずつ回りも変化していく
 「動いている時の中」の作品というところでしょうか。
 
 
 また、本作は「一本の長編小説」として書かれたのではなく、雑誌への連作作品です。なので
 我輩は猫であるという作品は、何本ものミニエピソードの集合体です。
 
 その為、いざ全体像を思い出そうとすると、ハッキリと「こういうお話です!」と思い出し
 にくいのだと思います。
 
 まぁ、今風で言うのならば、コチ亀の全体像を説明しろといわれているようなモノです(笑)
 
 
 
 そんな「我輩は猫である」は、ゆるーく淡々と連載されていくわけですが、最終回は衝撃的です。
 
 ココだけ知っておけば、ちょっとしたマメ知識として使えます。
 
  
 最終回。猫はいつもどおり、のんびりと暮らしています。そこに人間達が飲み残したビールを
 見つけます。猫は人間達が旨そうに飲んでいるのを思い出して、自分も飲んでみようと思い立ち
 結構ガッツリ飲んでしまいます。 
 
 すっかり酔っ払った猫は、気分が良くなって散歩に出かけます。
 
 そこで、うっかり足を滑らせて甕(かめ:水をためておく大きな壷のようなもの)に落ちて
 しまいます。
 
 かめには水が入っていて、猫は水死。死ぬまぎわに「南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」
 と言って突然の死亡終了となるのです。本当にコレで終わります。
  
 水死している猫を飼い主が見つけて、悲しむとかそういう後日談もありません。
 
 
 まさかの日常系からの突然の死亡エンドという急展開です。
 
 現代の作家が書けば、いままでゆーるく日常を過していた猫の物語ですから、きっと「ゆるーく」
 終わるんだと思います。
 
 しかし、日常系というジャンルが存在しない時代だったからこそ、このようなエッジの効いた
 終わらせ方が出来たのではないでしょうか。
 
 どうでしょう。100年前の日常系ノベルに少しでも興味が沸いて頂ければ嬉しいです。
 文学として読もうとすると、それは難しいですから軽い気持ちで読んで見ては如何でしょうか!
 
 猫視点の日常なので人間の不思議な行動がよく観察されていて、とても面白いですよー!
 
 AMAZONなどで、新書体版の単行本も購入可能です。それでも敷居が高いと思う方は
 漫画版もあります。
 
 是非!! 
  
   

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