2025年5月13日火曜日

【小説】人類アンチ種族神III《誕生》

――今から五十年前。東京を焼いた「神災」より半世紀さかのぼる時代──

後に〈人類アンチ種族神〉と呼ばれる存在が目覚めた、その記憶である。


◆   ◆   ◆


俺は、死んだのだと思った。

けれど恐怖はなく、痛みもない。

深い海の底でようやく息を吐き切ったかのような静けさだけがあった。

この終わりを、ずっと待っていた気がする。



◆   ◆   ◆


 歪みの始まり


二歳の春。――他人の不注意で信号無視の自転車が歩道に突っ込み、俺は跳ね飛ばされた。

脊髄を損傷し、左半身は中等度の麻痺。

医師は「奇跡的に命は助かった」と言ったが、その奇跡は幼児には重すぎた。


外見にはほとんど傷が残らない。立てば、ぎこちなくても歩ける。

だから大人たちは言った。


> 「努力が足りないだけさ」

> 「ほら、手を抜くな、怠けるな」

> 「泣くのは甘えだろ?」


左足が思うように上がらず、指先の感覚が半分しか戻らない、と訴えても

「できるはずだ」 と笑うだけ。健常な価値観で計った物差しは、俺の痛みを計測不能と切り捨てた。


家の中でさえ、両親は後に生まれた妹へ視線を注ぎ、

「お兄ちゃんは静かでいい子だものね」と微笑んだ。

黙れば家が保たれる。だから黙ることを覚えた。


◆   ◆   ◆


 働くという罰


十八で就職。体に負担の少ない軽作業を選んだ――つもりだった。

だが健常な上司は、自分のミスで止まったラインを

「遅いお前が原因だ」と言い張り、俺はあっさり切られた。

障害者雇用枠は求人票より狭く、抗議する力は麻痺より早く萎えた。


二十二で再就職。見下す視線と無言の圧が職場全体を湿らせていた。

「手が遅い」 「給料泥棒」――耳障りな陰口は、やがて自分の心音と区別がつかなくなった。


◆   ◆   ◆


 奇跡の光景と崩壊


そんな泥の底で、たった一輪の花が咲く。

彼女――昼休みに渡した紙コップのコーヒーを「ありがとう」と言って受け取る人。

特別な台詞ではなかった。けれど真正面から向けられた声は、俺だけを見ていた。


家庭ができ、男の子と女の子が生まれた。

小さな靴音が廊下を駆け、ベビーカーの笑い声が風鈴のように響く。

その光景は、間違いなく奇跡だった。


だが奇跡は長く続かない。


彼女は夜勤明け、横断歩道の青を渡っていた。そこへ大型トラックが赤信号を無視して突っ込み、ブレーキ音もなく彼女をはねた。運転席の男は明らかに首をがくりと傾け、ハンドルを握ったまま瞼を閉じていた――居眠り運転。


事故調書が上がる前に、運転手はこう証言した。


> 「いえ、歩行者が急に飛び出したんです。避けきれませんでした」


「そんなはずはない」

俺は現場近くの文具店から防犯カメラの映像を入手した。赤信号を突っ切るトラックと、青を歩く彼女。決定的だった。


だが運転手の雇われ先は大手運送会社だった。事故からわずか三日で、店主は映像を『紛失』したとくつがえした。後に知る――会社が高額で買収し、口止め料を添えてデータを封印したのだ。


法廷で俺は弁護士に翻弄された。


> 「確かに過失はあります。しかし故意ではない。居眠りという主張は原告のかってな想像にすぎません。証拠も証人もなく、妻を思う原告が被告への私怨から作り上げた妄想であると、われわれは主張せざるを得ません」

> 「事故後の調査では歩行者がわずかに前のめりに見えますね。急いでいた可能性は?」


眠っている姿がはっきり映った防犯カメラの映像を示そうとしても、手元に映像はなく。裁判官は運転手に禁錮一年、執行猶予三年を言い渡し、会社は業務改善命令だけで済んだ。


俺はただ、謝罪が欲しかった。すまなかったの一言でよかった。だが会社も男も「保険が降りますので」と頭を下げただけで、その眼に感情はなかった。


正義は金で買われる。 その現実が胃の奥で錆びた鉄の味を広げ、胸を焼く憎悪に変わった。


残された子どもを守るため、俺は働き続けた。

食べることも眠ることも感じることも忘れ、

気づけば、笑い声は過去形でしか思い出せなくなっていた。


◆   ◆   ◆


心臓停止


その日は朝から少し体が重かった。しかし体の不自由な俺は人よりも作業に時間がかかる。

俺はいつものように昼休みも取らず、倉庫の奥で三十キロの段ボールを抱えていた。照明は切れかけ、たった一本の蛍光灯がジジジと鳴り、影が床をゆらす。額を伝った汗が右目に入り、視界が滲む。


そのときだ。胸のまん中を、赤く焼けたナイフでいきなり刺されたような痛みが走った。


「――っぐ……!」


荷が落ち、つぶれた箱からネジが散る。ひざが折れ、ほこりのにおいが鼻を突いた。


やめろ、まだ倒れられない。給料日までは、あと三日なんだ。


左手を伸ばすが、指先から力がすべて抜ける。心臓が一発ごとに強く打ち、そのたび視界のふちが暗くなる。


痛みは徐々に強くなり、一つの思考が俺の中でこだまする。


――死ぬ? 今ここで?


恐ろしい。けれど同じくらい理不尽だった。


なんなんだ、このくそみたいな人生は。 せめて子どもたちの成長を見届けさせろ。父親まで死んでしまえば、残された子供の小さな肩にどれほどの重荷がのしかかるか──それだけは避けたい。 いや、それどころか――最後のことばひとつ残す時間さえくれないのか。


息が吸えず、口がぱくぱくと音もなく開くだけ。誰もいない倉庫に爪を立てても、助けは来ない。


ふざけるな……ふざけるな……!


胸を殴っても鼓動は弱まる一方で、世界の音が遠ざかる。ネジが転がるカラカラという音だけが、むなしく響いた。


俺は、ただ、ちゃんと謝ってほしかっただけだ。

彼女をころした運転手も、笑っていた上司も、この社会も。


涙は出なかった。かわりに熱い血が耳のうしろで波打ち、視界は真っ白に発光した。


「誰か――」


せめて――最後に……!


心臓が、ひとつ、ぐしゃりと音を立てた気がした。次の鼓動は来なかった。


白い世界だけが残り、そして静けさがすべてを飲みこんだ。


◆   ◆   ◆


(……おかえりなさい)


音ではなく光そのものが語りかける。

次の瞬間、宇宙規模の記憶が洪水のように流れ込む。


星々の上での修行。宇宙意思との問答。俺は“神の子”であることを思い出した。守るべき対象の種族を自身で体験し、理解し、愛するため 人間へ転生した観測者だった。


だが俺が見たのは愛ではなく、醜さと暴力だった。

傲慢、残酷、自ら築いた仕組みに押し潰されながらそれを正しいと唱える愚かさ。

その総和が怒りとなり、俺の内側で再結晶した。


「人間の種族神か。ならば存分に破壊から始めるべきだろう。このクソ種族は守るべき価値から

 作り出してやろう。面白い。実に面白い。あははははは」


人間として生きた生涯で、妻と別れてから忘れていた表情と感情が結晶の中で凝縮し

神の子は「種族神」として誕生した。


人類を最も憎む人類の種族神。

「人類アンチ種族神」の誕生の瞬間だった。


神として力を得た俺は、お台場の空に浮かぶ大地を創り、その中央に漆黒の塔をそびえさせる。

のちに人間はそこを「デスランド」と呼ぶだろう──だが名など要らない。ただの城だ。


黒いモヤを凝集し、石の翼を持つ兵を作り出した。

喰らわず、眠らず、人とその文明の破壊だけを使命とする影。人は《ガーゴイル》と呼ぶだろう。


これは復讐ではない。選別だ。

人間が守るに値するか、進化の資格を持つかを見極める試験。


祈る者には与え、立ち上がる者には道を残す。選ぶのは人間だ。

俺は冷酷に、正確に、一滴の雫を世界へ垂らすように試験を始める。


けれど胸の奥でまだ疼くものがある。

あの日の笑顔、小さな手の温もり、四人で落とした影――

それが完全に消えるまでは、秤を傾けてはならない。


塔のバルコニーに立ち、指先で夜空を弾く。

黒い粒が散り、都市の上空へ転移し、モヤへ、そして影へ。


下界の灯が遠く瞬き、やがて悲鳴に塗り替わる。


第一の試験を始めよう。


――この瞬間から人間は、それを神災と呼ぶ。



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