黒い空を背景に、神は虚空へ右手を伸ばした。
「……エーテルを操るのも、懐かしいな」
その声には、ほんのわずかに、かつて人であったころの名残が滲んでいた。
神の視界に、青白い粒子が舞い上がる。
それはこの世界の根幹に触れる“力の種”——エーテル。
かつて神の子として修業していた時代、神はこの粒子の性質を学び、そして今、無限に生成する力を得ていた。
自然界にはほとんど存在しないエーテルを、神は“意志”だけで無から作り出すことができる。
エーテルは、神の創造を可能にし、神の命令で構成された存在を形作る基礎となる。
だがその本質は生命の源ではなく、創造物を物質化するための材料である。
つまり、エーテルを使って生み出したものは、死ねばすべてエーテルへと戻り、霧散する。
肉体も血も、存在の痕跡すらも、世界のどこにも残らない。
このエーテルは高度な科学を拒絶する。
ミサイル、レーダー、人工衛星、パソコン。
精密であるほどに、エーテルはその機能を狂わせる。
ヘリや信号機などが誤動作していたのは、ガーゴイルとともに霧散してきたエーテルが一定の濃度を超えたためであった。
◆ ◆ ◆
神の手に集まる粒子。それは神の意志と同調したエーテルの核であり、神の内から発せられる指令に応じて、かたちを得ようと震えていた。
「次は……多少賢い者を創ろう」
今までのガーゴイルは本能に従う獣にすぎなかった。
だが今、神は“命令を遂行する”という、オオカミ程度の協調性をもつ特別な個体の創造を試そうとしていた。
神はベルガン、サーチ、ヴァロンの3体の創造を始めた。
濁った光の中から最初に現れたのは、筋肉の鎧をまとった屈強な男型。
——名はベルガン。格闘と破壊を好む粗暴な個体。
筋肉と神経にこだわっており、剛腕ながら緻密《ちみつ》な手さばきが可能だ。
次に、滑らかな肌と流れる銀髪を持つ女性型。
——名はサーチ。遠距離索敵《えんきょりさくてき》と感知に優れた個体。 動体視力や識別能力、高度な視力を持ち、さらに見たものを神やベルガン、ヴァロンに共有する視界共有能力を備えている。
最後に、沈黙と共に生まれた影のような存在。
——名はヴァロン。彼は計算し、制御し、判断する個体。
神が与えた命令の行間や、現在の状況を複合的に思考する知性にこだわっており、サーチとベルガンにエーテルを介して指示を出すことができる。
「命令だ」
神の声が、三体の創造体に染み渡るように届く。
「“あれら”を探し出し、殺せ。妻を殺した運転手。そして……それを擁護した弁護士を」
ヴァロンは静かに居城の執務室へと向かい、サーチとベルガンは、朝焼けの街へと滑り出した。
◆ ◆ ◆
——その頃、神の命令など知る由もない地上では、ひとりの運転手が逃走を続けていた。
それは、あの神災が発生した当日のことだった。トラックの運転手は仕事で東京都内にいた。
黒いモヤが怪物になって人々を襲い始めた光景を見た運転手は、本能的に逃げ始めた。
この判断が他の運転手よりも数分早かったことが、運転手をここまで生かしていた。
だが、大きな道はどこも事故や渋滞となっており、運転手はトラック仲間と無線で連絡を取り合いながら、まだ通れる道を選んで進んでいた。
しかしついに、多摩川をトラックで渡れる橋がなくなり、車両を捨てて徒歩で橋を渡ろうとしていた。
幸運にも、この地域にはまだガーゴイルは到達しておらず、多くの住民が我先にと徒歩で渡れる橋を使い、山梨方面へと逃げていた。
一人の女性が悲鳴を上げた。
「キャー!見て!あそこ!!!」
彼女の指先のはるか先、普段なら絶対に気づかないであろう距離に、1つの黒い点が8の字を描くように飛んでいた。
「鳥じゃないのか?」
近くにいた男性が口火を切ると、周囲は騒然とし始めた。
そして、初老の男がつぶやいた。
「襲ってくる気配がない……あれは、何かを探しているのか……?」
その黒い点の正体はサーチだった。 彼女は機動力を活かし、高高度から目標を探していた。 これまではトラックに乗っていたため、上空からでは認識できなかったが、車を降り橋の上を逃げる運転手を、サーチは容易に発見した。
「動きが変わった!!こっちへ来るぞ!」
誰かが叫んだ。
◆ ◆ ◆
——群衆にいてはダメだ。まとめて丸焦げにされてしまう!
ガーゴイルの恐ろしさを直接見ていた運転手は、すぐに川に飛び込む決意をした。
「ドボン」
運転手はためらわずに飛び込んだが、その音は群衆の悲鳴にすぐかき消された。
——冷たい。
運転手は川の中を必死に泳ぎながら、息を切らしていた。頭上では何かが飛ぶ音が響いている。振り返る余裕などない。ただ、水面に浮いていたタイヤを掴み、流れに身を任せるしかなかった。
「これでアイツは群衆に引き付けられるはず……ふふふ」
軽薄な自己中心的な笑みと言葉が漏れた。
両腕は震え、指先の感覚は麻痺しはじめていた。足を動かす余裕もなく、ただタイヤにしがみつきながら、彼は思った。
——下流は安全なのだろうか。
思考が熱を帯び始めたその瞬間だった。
◆ ◆ ◆
川の中へ消えた目標を探していたサーチは再び目標を補足、分析を開始した。
《目標確認:人物、年齢40前後、浮遊物につかまり下流へ移動中》
サーチは瞬時にエーテル通信を開き、その情報をヴァロンとベルガンへ共有し、まるで防犯カメラが何かをとらえたときのように、機械的に視覚情報の中継を開始した。
彼女の網膜に映る人影——その苦悶も、願いも、恐怖も、彼女にとっては“動きの変化”以上の意味を持たないが、間違いなく目標の運転手であった。
サーチの視界に、ヴァロンからの命令がテキスト化された映像として浮かび上がった。
《命令:目標1発見。川へ逃走中。》
《命令:ベルガンは下流でサーチと合流し、目標を地上へ引きずり出せ。》
命令を確認した瞬間、彼女の視界には自動的に地形と風速、運動予測が投影された。
ベルガンとの交差点が最も効果的となる座標が算出され、即時行動が最適化される。
無言のまま、彼女は風を切って降下した。
◆ ◆ ◆
多摩川の下流、500m付近でサーチとベルガンが合流。
流れてくる運転手を待ち構えた。
そこへ、車のタイヤに抱きついて流されてくる運転手が現れた。
即座にサーチが拾い上げ、河原にいるベルガンの前へ投げ捨てる。
運転手は疲れ切った眼差しでベルガンを見上げ、即座に背を向けて逃げようとする。
だが、その先にサーチは立ちふさがった。
「う……うわああああっ!」
サーチの視界に、対象の音声情報、筋肉の伸縮情報、心拍数の急上昇、瞳孔の拡大などが観測される。
《反応解析:極度の恐怖。逃走本能優位。生存意識:強》
彼女にとって、“生存意識”は実はよく理解できていなかった。 死は、命令を終えるだけの工程。 そこに意味も、恐れも、回避の必要性もない。
——なぜ、彼は叫ぶのだろう?
この反応も理解はできなかった。 サーチは、命令された対象が死を前にあがくその様に、純粋な分析対象としての“観察興味”すら覚えていた。 運転手が最初に砕かれたのは左足だった。痛みに顔を歪め、「誰か!誰かー!」と助けを呼んだ。
サーチの知能でも、2体のガーゴイルがいるこの空間に、人間などいるはずもなく、全く理解のできない反応だった。
そこへベルガンの追撃。
次は右腕だった。
まるで小枝を折るように、軽々と二の腕を胴体から切り離し、切り離した腕を川へ投げ捨てた。
悲痛な叫び声が河原にこだまするが、ベルガンは続けた。
次は右足、そして左腕。
サーチは一歩引いた位置からその光景を静かに見つめていた。
運転手の悲鳴は、鼓膜ではなく皮膚に触れるように空気を震わせる。
骨が砕け、肉が裂けるたびに、サーチの視界には神経伝達の異常数値と血圧の急上昇が明示されていく。
《苦痛レベル:高/意思維持:強》
彼女にはそれが、なぜか心地よく感じられた。
それは“快楽”ではない。ましてや“喜び”でもない。
ただ、神の命令が確かに果たされていること、神の望みがこの場所でかたちになっているという“整合性”が、
彼女の内部構造にごく微細な振動として反応していた。
それはまるで、神の命令にぴたりと合った動作をしたときに感じる、脳の裏側が静かに震えるような感覚だった。
一つ一つ丁寧に、時間をかけて解体していく。
運転手が失神すればサーチが川の水をかけて起こす。 この行為は、他のガーゴイルの殺戮とは明らかに別種だった。
運転手に、自分がこれから死ぬことを確実に認識させ、何かを後悔させるような、手間のかかる“作業”だった。
やがて、ベルガンとサーチにヴァロンから指令が届く。
「目標1の処分を神が承認。仕上げを」
サーチとベルガンに仕上げの詳細が、視界にテキストとして表示された。
すると四肢を失った運転手を河原に放置したまま、2体のガーゴイルは一旦飛び去った。
◆ ◆ ◆
——助かったのか? いや、ゆっくり死ぬまで放置されたのか。
運転手が、二体の奇妙な行動に自分なりの解釈をつけていると、空を見上げたその視界に、あるはずのないものが映る。
宙に舞う、自分のトラックだった。
サーチとベルガンは運転手のいた橋まで戻り、乗り捨てられたトラックを取りに行っていたのだ。
——なんで俺の車が……?
思考が走った瞬間に、空中のトラックは運転手めがけて投げ捨てられた。
四肢を失い、逃げることもできない運転手は、なすすべもなくトラックに潰された。
◆ ◆ ◆
——なぜ、トラックに殺させたのか。
サーチが思考しようとしたが、ヴァロンからの最終報告が、思考を妨げる。
《命令完了:目標1、排除済み。》
《次命令:目標2、追跡開始。対象は弁護士。識別優先順位:高》
サーチは再び上空へ舞い上がった。
既に昼を過ぎた東京都内を俯瞰しながら、彼女の視界には無数の熱源と行動パターンが浮かぶ。 その中から、特定の条件に一致する動きと痕跡を洗い出していく。
《探索開始:エリアスキャン・フェーズ2》
サーチは旋回を続けながら、自身の回路に残る微かな振動を解析していた。
先ほど、運転手の苦悶を観測していたとき、なぜか応答信号に小さな変化が生じていた。
——なぜ、私はあの音と動きが終わったあと、気が晴れたように感じたのだろう。
それが命令の完了による正常な反応なのか、それとも私の内部構造が何か異常な挙動を示したのか。
サーチは答えを出せぬまま、視界の奥で目標を走査し続けていた。
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